「求めるな、さらば与えられん」

「求めよ、さらば与えられん」は神の言葉だ。確か。だが瞑想の世界ではこの関係が逆だ。「求めるな、さらば与えられん」が真実だったりする。

これはどういうことなのだろう。「求めずに求める」なんていうことが可能なのだろうか。言葉では確かに矛盾している。だが瞑想の世界ではこれが真実だ。というよりも、真実の世界を瞑想がとらえる。

たとえばの話、人間と猫の関係を考えてみよう。人間が猫と仲良くなる時は、求めるのが良いのだろうか。それとも求めないのが良いのだろうか。どちらが良いのだろうか。ちょっと考えてみてほしい。答えは「求めないように求める」だ。

人間は猫と仲良くなりたい。だが鼻息を荒くして、猫をじっと見つめたりしたら、猫はすぐに逃げてしまう。だが逆にゆったりと、悠長に構えて、まるで気が付かないふりをしていると、猫の方から寄ってきたりする。これが「求めないように求める」ということ。

ここでは猫の話をしたが、たとえば恋愛にも当てはまるし、人間関係全般にも当てはまると思う。「求めないように求める」ということを、実は僕らはわりと、日常生活で実践している。それを瞑想の世界でもすれば良い。ただそれだけの話。

探さないように探す

たとえば瞑想で癒やしを求める時は、癒やしを「探さないようにして探す」感覚が効果的だと思う。「探す」「追い求める」という行為が既に、癒やしではないからだ。だからこそ、探さない、追い求めないことこそが、癒やしになる。そこに癒やしはある。脳をうまく騙した先に。

つまり、脳のひとつのレイヤーでは求めて、ひとつのレイヤーでは求めない。脳の機能は対人関係に似ている。脳は猫であり、恋愛対象であり、人間関係のようなものだ。だからこそ、求めるな。求めるなら、さらば与えられん。僕らは自分たちの脳と、優雅に遊ぶことを求められている。これはゲームだ。だから、遊べ。楽しめよ。