1日1回だけ「今」に戻って来よう。

それだけでマインドフルネスの訓練は達成だ。1日1回だけで良い。あとは全部おまけみたいなもの。

でも1日1回でさえ出来るだろうか。もし仮に、1日1回さえも戻ってこられなかったとしよう。

だけど「1日1回も今に戻ってこられなかった」と気付いている自分がいるなら、そいつはまさに、今この瞬間に気付いている自分だ。つまり、その時点で僕らの勝ちは決まりだ。

マインドフルネスの訓練を続ければ、今に気付く瞬間は次第に、1日10回となり、100回となり、1000回となり、10000回になる。そして遂には「常に今の瞬間にいる」ということが出来るようになるかもしれない。

だけど真実は、たとえ今に戻ってくるのが1回だろうとも1万回だろうとも、たとえそのどちらだろうとも、それに毎回、新しい1回でしかないということ。

たった1回の「今」が、何度も新しく生み出される。たとえ9999回の今を繰り返しても、次の瞬間に生成されるのは、たった1回の新しい今だ。今の瞬間にしか今はなく、気付く瞬間は今この時しかない。そのようなメタの世界に今はある。

僕らは、たった1回だけ今に戻ってくれば良い。2回3回と同時に今に戻ってくるということは出来ない。

「この感覚は、何に似ている?」

僕は今日、自分の体に起こっていることがよく分からなかった。

だから「この体に起こる感覚はなんだろう」「何に似ているだろう」と探していた。たぶん自分が頭で考えるようなものとは、全く別のものが裏側に流れている。真実はなんなのだろうかと探してた。

そして分かった。言ってみれば、それは暴力だった。たとえば街で大きな声をあげる喧嘩を見かけたり、テレビで暴力的なニュースを見たときに起こる、あの感じに似ている。

僕が体験したのは一見、暴力とはまるで関係ないようなシチュエーションなのにも関わらず、体は暴力に対しての抵抗を感じ取っていた。寂しさや、悔しさや、苛立ちではなく、確かに暴力に対する反応とよく似ていた。いわば怯えだ。

昨夜といえば、脳をハッキングしようとする作用と、瞑想的な防衛機能が、お互いにせめぎ合っていた。僕は「指先の感覚だけが自分だ」と意識を集中させながら、あふれては流れる思考や、イメージを、ひたすらに受け流そうとしていた。

そしてやがて決着がついた。と言いたいところだが、この戦いに決着はない。勝ったとも負けたとも言えないゲーム。だけど終わってしまえば、なかなか良いゲームだったんじゃないかと思う。

またひとつ収獲もあった。「この感覚は何に似ている?」と体に問いかけることで、認知のベールを剥がし、本質を見ることが出来るということだ。思い出せない人の名前を思い出す時みたいに、しばらく脳が探し続けることで、答えがふと分かる瞬間がやってくる。

「何に似ているか」が分かれば真実が分かる。そして思い違いの雲も晴れる。

たとえばオレンジを林檎だと思ったままだと、永遠に林檎を見つけることは出来ない。ハヤシライスとビーフストロガノフを間違ったままだと、永遠にビーフストロガノフは食べられない。右と左、お箸を持つ手とお茶碗を持つ手を間違っていたら、地図だって役に立たない。

正しく、適切に認識すること。「何に似ている?」という問いかけが、助けになるだろう。きっとことあるごとに、これからも。

今が幸福でなければ、明日幸福になる意味なんてない。

まだ僕には、言葉では説明しづらいこと。とても。

いつでも幸福が存在するのは今しかない。言葉で言うのは本当に簡単なこと。マインドフルネスの世界では「今に存在する」という言葉が、使い古される。だけどいくら言葉だけが使い回されようと、それだけで腕が上がるわけじゃない。

たとえば野球の技術の本がいくら出版されても、それで野球の腕が上がるわけじゃないように。たとえばダイエット番組がいくら放映されても、それだけで痩せられるわけではないように。

今現在に存在するのは尊い技術だ。純度の高い今現在を手に入れるには、技術が必要だ。だけどいつだって、必要な腕が足りないということはない。ボールを投げることなら誰だって出来る。重要なのは僕らがボールさえ投げていないということだ。

僕が未来の幸福のことを考えている時、現在の幸福はすっぽりと抜け落ちる。けれど脳はそのことに気付いていないし、脳の持ち主も気付いていない。仮想の上の仮想の上の仮想の上に幸福を描く。丘の上の丘の上の丘の上に家を建てるみたいに。

僕は瞑想で幸福度を上げた。だから瞑想を幸福の手段にしている。だけど気が付けばもう1ヶ月も、未来だけに幸福を求めていたりする。今日に戻ってくる瞬間がない。今日よりも明日、明日よりも明後日に幸福を求める。明日も明後日も存在しないかもしれないのに。明日や明後日にはもしかしたら、この命だってないかもしれないのに。今現在のようで今現在じゃない、まがいものの未来や過去を見せられている。心はまだ雑然としたままだ。

未来と現在は圧倒的に違う。たとえそれが3秒先の未来であっても、1秒先の未来であっても、未来は未来だ。0秒のギャップもない今現在じゃない。

たとえどれだけ瞑想がうまくなっても、今に存在していない瞬間は、いつだって不幸だ。たった今この瞬間にも、心は微細な揺れを繰り返して、未来と現在を行ったり来たりしている。往復運動だ。そして心の9割は未来に存在する。純度の高い100%の、今現在というものを、僕はまだ正確に捉えることが出来ない。

明日は本当は存在しない。洗脳度の高い幻想だ。今が幸福でなければ、明日幸福になる意味なんてない。

 

瞑想中級者は「呼吸」よりも「気」に意識を向けなさい

呼吸に意識を向けるのは、瞑想の基本にして真髄だ。

だけど僕は、ちょっとだけ何かが違う気がしてきた。呼吸は瞑想の役に立つ。だけどなにかすごく限定的というか、狭い感じがしていた。

もう少し広い感覚が良い。体全体の感覚に意識を向けるのが好きだった。かと言って、呼吸は相変わらず中心にある。だから呼吸を完全に手放すわけでもない。

なんとなく「呼吸を中心とした、体全体の感覚」の有機的な働き全体をとらえるのが良いという気がしていた。

「気」という言葉があった

だがこれは、「気」と呼ばれるものなんじゃないかと思った。その時読んでいたのがヨガの本だったので、そこでは「プラーナ」という呼び方がされていたけれど。

「気」というとなにか非科学的な、超常現象的な響きを帯びている。だけどこれは要するに、体の一部だけに限定されない、トータルな働きのことを呼ぶんじゃないだろうかと思った。

この「気」という名前によって、瞑想におけるバランシングの本質が明らかになったように思う。

これからは「呼吸を中心とした体全体の有機的な働き」を「気」の一言で表すことができる。なんと便利な言葉じゃないだろうか。

「求めるな、さらば与えられん」

「求めよ、さらば与えられん」は神の言葉だ。確か。だが瞑想の世界ではこの関係が逆だ。「求めるな、さらば与えられん」が真実だったりする。

これはどういうことなのだろう。「求めずに求める」なんていうことが可能なのだろうか。言葉では確かに矛盾している。だが瞑想の世界ではこれが真実だ。というよりも、真実の世界を瞑想がとらえる。

たとえばの話、人間と猫の関係を考えてみよう。人間が猫と仲良くなる時は、求めるのが良いのだろうか。それとも求めないのが良いのだろうか。どちらが良いのだろうか。ちょっと考えてみてほしい。答えは「求めないように求める」だ。

人間は猫と仲良くなりたい。だが鼻息を荒くして、猫をじっと見つめたりしたら、猫はすぐに逃げてしまう。だが逆にゆったりと、悠長に構えて、まるで気が付かないふりをしていると、猫の方から寄ってきたりする。これが「求めないように求める」ということ。

ここでは猫の話をしたが、たとえば恋愛にも当てはまるし、人間関係全般にも当てはまると思う。「求めないように求める」ということを、実は僕らはわりと、日常生活で実践している。それを瞑想の世界でもすれば良い。ただそれだけの話。

探さないように探す

たとえば瞑想で癒やしを求める時は、癒やしを「探さないようにして探す」感覚が効果的だと思う。「探す」「追い求める」という行為が既に、癒やしではないからだ。だからこそ、探さない、追い求めないことこそが、癒やしになる。そこに癒やしはある。脳をうまく騙した先に。

つまり、脳のひとつのレイヤーでは求めて、ひとつのレイヤーでは求めない。脳の機能は対人関係に似ている。脳は猫であり、恋愛対象であり、人間関係のようなものだ。だからこそ、求めるな。求めるなら、さらば与えられん。僕らは自分たちの脳と、優雅に遊ぶことを求められている。これはゲームだ。だから、遊べ。楽しめよ。

うまく認識できる感覚と、まだうまく認識できない感覚がある。

  • 悲しい、嬉しい
  • 不安
  • 眠気
  • 緊張

こういったものは割とうまく認識できるようになってきた。

自分が「心理的な感情」と思い込んでいたものを切り離して「自分ではないもの」だと理解できるようになった。身体感覚での認知が出来るようになった。

だが逆にうまく認識できないものもある。

  • 社会的不安
  • 気恥ずかしさ
  • 小さな苛立ち
  • 期待や失望

こういったものは、まだ。身体的感覚として意識から切り離しづらい。

なんとなく意識がざわめいていることは分かるのだが、体の中で具体的に、どの部分がどのようにざわめいているのかがうまく切り分けられない。

つまる難易度が高い感覚がある。人間には、ものすごく微妙な部位に流れる感覚があるみたいだ。うまく認識できないと、それが現実と化合して、クオリアが僕を圧倒する。

だがこれは根本的に認識できないものというわけではなくて、まだ自分の認知レベルが届いていないだけだと思っている。

瞑想のコツは脳のスイッチをオフにしていくこと

瞑想というと、何か特別なものを付け加えるというイメージをついつい抱きがちだ。だが実はまるで逆だ。瞑想はプラスではなくマイナス。足し算ではなく引き算。このことを何度だって思い出したい。

たとえば今の瞬間に存在するためには、今の瞬間に存在するためのスイッチを入れるわけじゃない。逆に今の瞬間に存在しないスイッチをオフにしていく。

たとえば座って目を閉じていると、すぐに心は未来や過去に走り出す。追求モードのスイッチが自動的に入る。スイッチがオンになるたびに、それをオフにする。オンになったらすぐオフにする。それを繰り返す。すると、最後に残るのが、無に近い状態。今だけに存在する状態だ。

こうやってスイッチをオフにし続けると、何もしないという境地が分かるようになる。ついつい忘れがちな事実だが、瞑想では、まるで何もしないという尊い状態がある。そしてこの状態にたどり着くと、脳が高度なレベルで、自分が何もしていないということを理解するみたいだ。

今に存在するということは、今に存在しないということを、やめることだ。闘争モードのスイッチを次々にオフにしていこう。

瞑想の地図。シンプルな言葉を唱えてみよう。

言葉は瞑想に役立つ。杖みたいなものだ。杖に全体重を預けると歩けない。だけど歩く助けにはなる。あるいは補助輪みたいなものだ。自分で自転車をこぐ必要はあるけれど、バランスを整えてくれる。

言葉と思考は以外に違う。思考というのは自動的におこなわれる、ランダムなもの。言葉は単純に繰り返す意図的なものだ。たとえば瞑想をしながら、頭の中で何かしっくりとくる言葉を唱えてみる。

  • 「完全な安らぎ」
  • 「私は存在しない」
  • 「呼吸と癒やし」

こんな感じでシンプルな言葉を繰り返す。ただし無理はしない。言葉が有効に働いている時には使えば良いし、有効に働かない時には使わないこと。

そして言葉はあくまでも杖であり、補助輪であり、サポート役だ。言葉に頼りきるようではいけない。言葉を助けとして、身体感覚にはたらきかけていこう。

瞑想に迷ったときのために、いつでもお守りに出来る「フレーズ」を用意しておくと良いかもしれない。道が分からなくなった時に地図が役立つように、シンプルな言葉は役に立つ。

マインドフルネスで成長するにはどうしたら良い?

よく考えてしまう。マインドフルネスでより成長するにはどうしたら良いのか。もっと幸福になるにはどうすれば良いのか。自分は、幸福への階段を正しく登っているのか。

だがここに、ものすごいパラドックスがある。

それは、マインドフルネスの成長について考えている瞬間はだいたい、マインドフルネスを実践できていないということだ。

「マインドフルネスについて考えること」と「マインドフルネスを実践すること」は、似ているようで違う。むしろ真逆だと言ってもおかしくない。

たとえば「手を動かそうと考えること」と「手を動かすこと」が全く違うように。マインドフルネスについて考えることは、マインドフルネスの実践じゃない。

だから考え続けても決してたどり着けない。「考え続けること」の先には、実は正解はない。

思考の反対方向へ

マインドフルネスで成長するコツは、今に集中することだ。何度でも繰り返し、今に戻ってくること。ただ、それだけしかない。

「成長したい」という思考自体には、僕らを成長させる要素はない。考えるほど答えに近づくというのは錯覚だ。いくら考えても成長はできない。思考している時間があったら、今に戻ってきた方が良い。

身体感覚を取り戻し、肌感覚や、音や、環境や、思考ではないもの全てに、注意を向けるのだ。

 

マインドフルネスが終わった瞬間を祝福しよう

マインドフルネスが終わった瞬間は、それが終わったことを祝おう。

たとえばそれが時間を忘れるフロー状態のようなものだったなら、時間を忘れていたことを祝おう。今は時間を気にし始めたけれど、ということは、その瞬間までは時間を忘れていたということだ。

僕らは終わってしまったことに対して無自覚だけれど、終わってしまったことの中にも、喜ばしいものはたくさんある。飛ぶように時間が流れたからこそ、マインドフルネスが存在したからこそ、それが終わってしまった時が悲しいのかもしれない。

だから祝福しよう。僕らは過去を呪うことも出来るし、お祝いすることも出来る。そして過去を祝福している瞬間はマインドフルネスだ。