マインドフルネスには中心なんて存在しないのかもしれない。

僕がマインドフルネスの中心を探そうとしていた。絶対的にぶれない軸のようなものを。その中心さえ見つかれば、もっとマインドフルネスは上手に運ぶような気がしていた。だけどその軸はずっと見つからないままだ。

そして思った。これだけ探しても見つからないということは、本当は軸なんて存在しないのかもしれない。なぜなら、軸を見つけようとするのは止まる行為だ。動かないものは何も存在しない。動いているものの中にだけマインドフルネスは存在する。だから動きを止めて軸を見つけようとしても見つからない。

これは脳の機能的に言っても納得がいく。どうやら脳の働きには中心が存在しないらしい。これはものすごくザックリとした理解だが、脳の各部位を統括しているような中央センターは無いらしい。全ての働きの統合として意識というものが生み出されているそうな。マインドフルネスも同じなんじゃないだろうか。動きはあるけれど中心はない。

それならば、中心を探し出そうとする努力自体をやめてしまえば良い。そんなものは最初から存在しないかもしれないのだから。

もし中心があるとしたら、それは様々な動きの連鎖が生み出すものだ。意識が収縮と緊張、集中と拡散を繰り返して、周回活動をする中で浮かび上がるもの。だから動きを止めるな。円を描かせたままにしておけ。マインドフルネスは動きの中にある。

結局好きなことをするのが、一番のマインドフルネスだ。

ゲームが好きならゲームをすれば良いし、小説を好きなら小説を読めば良いし、ブログを書くのが好きならブログを書けば良い。

だけど「好きなことがしたいのに、できない」とわずらわされたり、「好きなことをする時間が終わってしまう」と嘆いたり、「好きなはずなのに、なんだか楽しくない」と、身体感覚が空洞だったりすれば、それはマインドフルネスじゃない。

だけど、その虚しさや悲しさをよく観察して、受容したり、受け流したりすれば、それはやっぱりマインドフルネスだ。

このようにマインドフルネスの流れは何層にもある。何がマインドフルネスなのかを決めるのは難しい。決めてしまうことはだいたいマインドフルネスじゃない。何も決めないことがマインドフルネスかもしれない。

 

 

瞑想と失業の関係。失業するかもしれない。だからこそ今の瞬間が幸福だ。

失業は残酷だ。

一説によると、失業による幸福度の低下は、しらばくして再就職しても元に戻りづらいという統計さえあるらしい。

僕には自信がない。

所詮マインドフルネスなんだかんだと言っても、たとえば失業したらそんなことは言っていられなくなるんじゃないか。

あくまで仕事があってこそ、今の幸福がある。お金があってこそ、マインドフルネスが実践できるんじゃないか。

仕事や、社会的地位(大したものじゃないが)を失ってまでマインドフルでいられるかどうか自信がなかった。失業はいつでも怖かった。

そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

仕事を失ってもマインドフルでいられるかもしれないし、そうでないかもしれない。それはいざ体験してみなければ分からない。その時が来てみなければ。

瞑想を続けて二年。今では脳のスイッチを少し切り替えやすくなった。

可能性としては、将来的には失業するかもしれない。誰にでも失業のリスクはある。

だけど、だからこそ、仕事がある今を幸福だと思えるようになった。

幸福を感じる瞬間は、常に今の瞬間だ

失うことから逆算しても、今を幸福だと感じることが出来る。

瞑想を始めるということは、物事の感じ方を、まるで変えてしまうということなのだ。

瞑想で疲れたら、瞑想しよう。(集中とリラックス)

瞑想にもエネルギーを消費する瞑想と、回復する瞑想がある。

集中する瞑想はエネルギーを消費する。意志力を使う感じだ。

リラックスする瞑想をすると、エネルギーを回復することができる。

人間のエネルギーは一種類ではない。様々な機能が複雑に働いて、消費と回復を繰り返している。

やり方はシンプルだ

集中したい時は、集中に向いた姿勢で、集中する感じに意識を向ける。

リラックスしたい時は、リラックスに向いた姿勢で、リラックスした感じに意識を向ける。

それだけだ。

具体的には

座りながらの瞑想で集中した後には、ソファに腰掛けながら瞑想でリラックスするのが良いかもしれない。もっとリラックスしたければ、体を横にしても良い。

ただ姿勢を変えるだけでも、体で感じるものは全くと言って良いほど変わる。

あぐらをかいて座っている時には「集中していく感じ」が出やすいし、ソファに座ったり横になると「リラックスしている感じ」が、身体感覚として生まれやすい。

なので、あとはそれぞれの感覚に意識を向けてやるだけで良い。

 

瞑想家も社会的不安には弱い。

とある話によると、数十年の経験を積んだ瞑想家がダライ・ラマに会ったとき、気付くと手に汗を滝のようにかいていたという。

そして「修行が足りない」と思ったそうな。

瞑想を続けていても、人間は社会的不安には弱い。

特に、瞑想の免疫がなかなか効きづらい部分ではあると思う。

いや、そもそも人間の最も弱い部分なので、瞑想の効果も即効では及ばないというか。

社会的不安を感じている自分を許そう。

どれだけ瞑想を続けても、社会的不安は、完全にはなくならないかもしれない。ひょっとすると無くなるかもしれないけれど、結果は分からない。

大事なのは、自分のどうしようもない弱さを見つけたとき、まずはそれを認めること。

瞑想の経験歴なんか関係ない。

どこかの歌の歌詞じゃないけれど、弱さを認めることが強さだ。

ただフラットに存在することが、マインドフルネスのトレーニングになる。

呼吸に集中しなくても、他のものに集中しなくても、特別なことをしなくても、ただ、特別なことをしないというだけで、それがマインドフルネスの訓練になるという場合がある。

「ただフラットに存在する」とは

低次元の「ただ存在する」は、今ここにあらず、思考に満たされている状態だ。

高次元の「ただ存在する」は、今ここにいて、思考や感覚を認知できている状態だ。

この状態にまでたどり着くと、座りながらの瞑想のトレーニングよりも、世界に存在すること自体がマインドフルネスを高めてくれる。

座るだけが瞑想じゃない

ちなみにマインドフルネスの本を書いている人でも、座りながらのフォーマルな瞑想をしないという人もいる。

禅を実践しているお寺の人でも、いったん座禅の基本を身につけると、あとは意識しなくても座禅的なバランスの取れた状態でいられるらしい。

「いちど自転車に乗れると、それからずっと乗れる」みたいな感覚だろうか。

「ただフラットな状態」を言葉にするのはなかなか難しいが、言葉にするのが難しいところに、マインドフルネスの本質はあると思う。

瞑想の腕が上達してきたら、あえて世界に飛び込んで、存在すること自体を楽しんでみても良いかもしれない。

瞑想で執着を無くすには? 指先の小さな感覚に集中してみよう。

呼吸に集中するよりも、ずっと防衛的な瞑想がある。

それが、指先の小さな感覚に集中する瞑想だ。

姿勢はお好きに。

指と指を合わせる。両手の指先でも良いし、片手の指と指でも良い。

そして指先の小さな間隔に注意を向けてみる。

指先の小さな感覚だけが、自分だと感じてみる。

それ以外の感覚や、思考は、自分ではない。

何か自分じゃない、何か別の生き物だと感じられるかもしれない。

自分は小さければ小さいほど良い。

小さければ小さいほど、ダメージを受けにくい。

感覚の99.9%は自分ではないのだから、自分というものに戸惑うこともない。

単純に「自分を消そう」としても難しいけれど、自分を小さな感覚として感じ取って見ることは出来る。

指先の小さな間隔が、自分の軸になる。

たとえば僕は以前、瞑想で自分の中に軸を見つけようとしていた。

何にも揺らがない、絶対的な軸を。だけど自分の中心に軸を見つけるのは難しかった。

そして気付いたのは、軸は必ずしも、中心にある必要はない。大きい必要もない。

指先の小さな感覚が、軸になるということ。

瞑想で幸福になるには、幸福追求モードのスイッチをオフにすること。

瞑想を続けていると、幸福がだんだんと大きくなってきて、楽しくなってくるかもしれない。

すると、もっと大きな幸福を、もっと豊かな幸福を求めたくなるかもしれない。

だけど、それも罠だ。

脳の幸福追求モードのスイッチが入りっぱなしだと、幸福は近づきづらいように感じる。

なので「幸福を求めずに幸福に近づくこと」が重要になる。

言葉では矛盾するように聞こえるかもしれない。

だけど違う。それは言葉が単純過ぎるからだ。二つは容易に両立する。

たとえば猫に興味がないフリをして、猫に近づくように。たとえば最初は相手に興味がないフリをして、恋愛を進めるように。

うまく脳を騙すこと。

身体レベル、意識のレベルで幸福追求モードのスイッチを入れずに、具体的には幸福追求のための行動を取ること。

たとえば「瞑想で幸福になんかならなくて良い」という意識で、瞑想をする。だけど1日の瞑想の回数や時間は増やすとする。

これは「意識では幸福をしないこと」と「行動では幸福追求すること」が組み合わさっていることになる。

瞑想で幸福感を感じるコツは戦線縮小。本当に小さな場所に幸福感を見つけてみよう。

幸福感を感じるには、大きくならない方が良い。戦線拡大するのは危険だ。大きなものは不安になりやすい。

なので逆に戦線縮小して、なるべく小さくて薄い場所に注意を向けてみる。

たとえば、本当に指先の他1ミリぐらいの感覚に意識を集中させる。

小さくなればなるほど、幸福感は感じ取りやすくなる。

瞑想と虫眼鏡、灯台下暗し。「ここではないどこか」ではなく、全て必要なものは揃っている。

これはものすごく重要な話。

瞑想をしていて気付くのは、全て必要なものは、実は自分の中に揃っているということだ。

「ここではないどこか」に必要なものは存在しない。

「ここではないどこか」を探しても見つからない。

「灯台下暗し」という言葉がピッタリだ。

これはもののたとえや、精神論や、抽象的な話じゃない。

瞑想の世界では、意識や身体のレベルで、本当に「必要なものは既に存在する」ということが多い。というより、それがほとんどだ。

たとえば、心に安らぎを感じたい時

今、自分の体に存在しない「新しい感覚」を呼び起こそうとしても、なかなかうまくいかない。

だけど逆に、今存在する感覚の中から「安らぎ」「安らいでいる部分」を注意深く探すと、これが意外に見つかったりする。

いちど「安らいだ感覚」を見つけると、それを拡大することも出来る。

瞑想は虫眼鏡みたいだ

存在しないものは見つからないが、存在するものなら拡大することが出来る。

やってみよう

瞑想をする時、何か呼び起こしたい感覚がある時は、ぜひ「身体感覚」のレベルで「既に存在するもの」を見つけてみて欲しい。

たとえば「リラックスしたい」なら「既にリラックスしている場所」を見つける。

たとえば「集中したい」なら「既に集中している場所」を見つける。

「既に存在するもの」を見つければ見つけるほど、見つけることはうまくなるだろう。