瞑想は線を点にする

人は線を描くのが好きだ。ストーリーを描くのが好きだ。過去と未来をつなぎあわせて、点を線としてつなげようとする。

だけど瞑想の世界は、逆に線を点にする。元ある場所に戻す。

点はだた1点に存在する。長さも厚みもないからこそ、強い。

逆に線は弱い。長ければ長いほど折れやすくなる。

たとえば、僕は人生について考えることをやめた

なぜなら人生とは、点と点をつないだときに描かれる線でしかない。

人生というものは実は、存在しない。僕らが頭に線を描きさえしなければ。

点になるには勇気がいる

僕らはこの「人生」という線の中で、ずっと線を描く練習をしてきた。最初は点だったものが、次第に線となり、点に戻ることができなくなった。

だから点になるのは恐い。いちど点に戻ってしまえば、今まで描いてきたような線が描けなくなるのではないかと恐れる。

たとえ一度点になることが出来ても、この命の線の最後に、線を思い出してしまうのではないかと恐れる。その考えさえも、僕らが描く線の一形態だ。

だがたとえ僕らが、点とだけして存在しようとも、線というものは、勝手に描かれる。僕らが点であろうと、なかろうと、誰から見ればそれは線であり、誰かかから見ればそれは点だ。

描かれているとも言えるし、何も描かれていないとも言える。なので描かれるに任せておけば良い。

点であることを恐れるな

瞑想は点だ。

全く別の世界で起こっているゲーム

目を閉じながら考えてみる。社会的なゲームは、本当の自分とは全く別の世界で起こっているものだと。

普段、人間は社会性というものに洗脳されているけれど、ただ超然とした自分が、真実の世界に存在する。

人生の中で何度か見つかり、そのたびすぐに消えてしまった、洗脳度の低い自分。

だけど今では、よく目を凝らせば見つかるような気がする。夢から覚めるように。

社会的評価を気にせず生きられる?

社会的評価は洗脳度が高い。人間の意識のものすごく薄い、分かりづらい箇所で起きていると思う。なので、まるで完全な現実のように感じられる。たとえそれが全部、自分の頭の中で生み出されたものだとしても。

僕は最近「社会的評価に反応する自分」を、瞑想的に処理しようとチャレンジしていた。だけどなかんか難しい。社会的評価への反応を、身体的感覚に還元して、現実から外部化たかったのだけれど、まだうまくいっていない。

なぜなら身体感覚の中で、どれが社会的評価に対応する感覚なのか、よく分からない。あまりのも素早く、薄く、見えづらい場所で、複雑なことが起こっているような気がした。そのスピードをまだ、僕の瞑想はつかまえられない。自分が現実を生み出しているのではなく、現実の中に自分がいる感覚。脳がハッキングされている。

「現実的感覚」ならたとえどんなものでも、すべてを身体感覚に還元できると思っていたけれど、今の僕にはまだ無理なもののひとつ。それが社会的評価や、人間関係にまつわる多くのことだ。

なので今は外部化することを諦めて、ただ単に、イメージが通り過ぎること、思考が生み出されるのを観察することにした。身体的感覚ではないけれど、イメージや思考も、極薄のエネルギーを持っているという点では、外部化できるもののひとつのはずだ。

僕はゲームにはまり込んでいる自分を見つけて、そこから抜け出そうとせずに、ただ放置してみることにした。

腹が立っている時のマインドフルネスは、ただ認知すること。

実は穏やかな自分になんて、ならなくて良い。

マインドフルネスでさえも、求めなくたって良い。

ただ怒りを認識し、認知するだけで良い。ひたすらそれに徹する。

炎を消さずに、燃えたままにさせておく。

もしかしたら「怒りの味わいも悪くない」と、そう思えるかもしれない。

もしかしたら「悪い」と思えるかもしれないけれど。

炎をただ見つめる。何かが燃えていることを。

 

コンティニューとゲームオーバー

思考がめぐりめぐっていることに気付いた時、それはゲームが終わった瞬間。

僕らはコンティニューではなく、単にゲームオーバーを選ぶだけで良い。

何度でもゲームオーバーを選んで、そのたびゲームを終わらせる。